厳しい寒さが続いていた1944年1月、駒岡在住の磯ヶ谷幹雄さん(78、当時6歳)の父親のもとに赤紙が届いた。「近所中の人が激励に集まり、ドンチャン騒ぎ。母も泣くことは無かった。賑やかな歌を今でも覚えている」という一方で、「風呂場で母が親父の頭をバリカンで刈っていた。見たこともない風景でただ事ではないと思った」
4百年以上駒岡に居を構える名家の長男として生まれた。祖父は旧旭村最後の村長を務め、父は東京芝浦電気(現東芝)の本社勤務。「上野動物園の帰りに丸の内で食べさせてもらったカレーライスの味は、生涯忘れられない」と幼少期の父との思い出を懐かしむ。
44年4月、幹雄さんは旭尋常小学校へ入学。入学式には出兵前の父が休暇をとってきてくれた。「嬉しかったのだと思う」。それが父親の最後の姿だった。同年7月、父の部隊はサイパン島に向かう途中で全滅した。
駒岡にも戦火
当時の駒岡は田んぼが広がるのどかな地域だったが、戦局が悪化するにつれ敵機からの爆撃を受けるように。「押し入れの布団に銃弾が撃ち込まれた」という間一髪の出来事もあった。終戦間際の45年の夏休みには、自宅付近で不発弾が爆発した。「寺尾中のあたりにあった高射砲陣地から消火に駆け付けてくれたが、蔵は黒焦げになった」。過酷な境遇にあっても、家族一丸となって生き抜いた。
終戦後、母に宛てた父の遺言書を見せてもらった。そこには家長となる幹雄さんの教育を全うせよとの一筆があった。「女手ひとつで大学まで通わせてくれた、気丈な母だった」。両親の思いを知り、熱いものが胸の奥底からこみあげた。
戦争の歴史、紐解くように
「高校生までは、親父はどこかで生きていると信じていた」。しかし時は流れ、さすがにもう帰ってこないだろうと思った時「どうしてこの戦争がはじまったのだろうか」との疑問が湧き上がった。数々の文献を読み漁るようになり、現在は遺族らとともに慰霊施設への慰問などを行っている。
「戦争は絶対にあってはならない。温故知新で歴史を学んでほしい」。万感の思いで今年も戦死者へ哀悼の意を捧げる。
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