2011年に75年の歴史を終えた鶴見工業高校。その跡地に作られた公園に高校の記念碑と銘板が置かれたことを祝って、閉校後初となる同窓会が4月1日に行われた。
卒業生約2万5千人。京浜工業地帯を始め全国の企業に優秀なものづくりの人材を輩出し続けてきた同校。1954年には甲子園出場を決めるなどスポーツも盛んだった。
しかし00年、市の高等学校再編整備計画により、学校作りのコンセプトや教育内容を検討。現在の横浜サイエンスフロンティア高等学校=小野町=の開校に伴って、同校は閉校した。
同窓会の橋本大二郎会長=人物風土記で紹介=は、閉校が決まった時の気持ちを「寂しい。自分が生まれた年にできた高校。家にいるよりも学校にいる方が楽しかった。それだけ愛着がある」と話す。
2年の準備期間を設け、11年の3月12日に予定されていた閉校式は東日本大震災によって中止。翌年開催された。
守られた記念碑
同校の正門前に飾られていた記念碑は74〜78年度卒業生の寄付によって造られたもので閉校と同時に撤去された。
しかし、「なくすのはもったいない」という声を受け、下野谷町三丁目自治会の永井和男会長によって、壊れたり無くなったりしないように7年間守られ、跡地に整備がすすめられていた「下野谷町三丁目公園」に移設された。
永井会長は「自分は鶴見工業高校出身ではないが、地域として深い交流があった。日本の工業界を代表する高校が無くなるのは残念だったし、力になりたかった」と振り返る。
当日は卒業生約120人が参加。閉校と同時に結成された応援団ОB会である鶴團會(かくだんかい)の演武や校歌斉唱が行われ、懐かしさに涙を流す人もいた。
橋本さんは「卒業生が生んだ『鶴工魂』がいつまでもこの地にあり続けることを記念してこの記念碑は建てられた」と話し、同校愛校式関連事業実行委員長を務めた岩下義正さんは「記念碑を見て、鶴見工業高校がここにあったということを少しでも思い出してもらえたら」と願った。
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