川崎と横浜の境目である「矢向」。交通アクセスの良さから新たな大型マンションの建設も始まり、若い住民も増加中。いま盛り上がりを見せている街だ。豊かな田園風景が広がっていた矢向は、煉瓦工場や京浜工業地帯の操車場として発展してきた。そんな矢向の歴史を追った。
矢向・江ヶ崎冊子作りの会の「わがまち 矢向・江ヶ崎」によると、矢向(矢口)は「川の合流する所」「川に面している所」などを意味し、多摩川と鶴見川に挟まれた低湿地であったことからその地名がついたと考えられている。
1881年に作成された地図を見ると、矢向周辺はほとんどが田や畑で、梨栽培やナスの共同栽培が行われていた。
赤レンガの煉瓦工場
横浜開港後、西洋建築の需要が増え、良質な粘土の土が採取できる鶴見川下流域では煉瓦製造が盛んになった。矢向には4つの工場があり、現在のみなとみらいの赤レンガ倉庫や中華街の建設にも矢向の煉瓦が使われた。矢向の街を巡ると、良忠寺や最願寺の本堂の土台など、至るところで矢向で焼いたと思われる古い煉瓦を見ることができる。
その後、矢向は京浜工業地帯の操車場や南武線沿線の工場進出などで発展。住宅や社宅が建ち、商店街もできていった。
シンボルの楠
矢向駅前に青々と生い茂る楠にも歴史がある。
1927年、南武鉄道(現在の南武線)川崎・登戸間が開通し、矢向駅が誕生。その時に当時の良忠寺の住職が開業記念として境内の楠と金木犀、モッコクの3本を寄贈し、駅前広場に植えられた。1945年の鶴見大空襲で大きな被害を受け、3本の記念樹も消えてしまったという。しかし、楠だけは奇跡的に蘇生し、現在も矢向の街を見守っている。
鶴見区版のローカルニュース最新6件
|
|
|
|
|
|