鎌倉と源氏物語 〈第6回〉 精神の系譜上東門院から第5代執権時頼へ
「武士の都」として知られる鎌倉ですが、『源氏物語』と深い関係があることはあまり知られていません。文化薫る歴史を辿ります。
鎌倉時代の僧・無住(むじゅう)が残した『雑談集』によると、松下禅尼は敬愛する上東門院(じょうとうもんいん)を見習い、深く仏教に帰依したそうです。
上東門院の信仰を物語るものに、1923年に発掘された経箱(きょうばこ)があります。これは1031年、比叡山横川如法堂で、円仁という入宋した高僧の法華経を守るために銅筒を埋経した際、上東門院が協力したもの。
埋経とは、釈尊入滅後の末法の世にあって、弥勒菩薩が出現するまでのあいだ、経典を守るために地中に埋める作善のことです。
この経箱は他の銅筒と一緒に発掘され、平安時代の金工品の最高傑作とも呼ばれています。これが展覧会に貸し出されている時、比叡山に落雷があって銅筒一式すべてが焼失するという不運に見舞われました。奇跡的に経箱だけが残ったという逸話があります。
経箱に付した上東門院の願文は、国母としての自覚に則った衆生済度を願うものでした。松下禅尼が引き継いだこの仏教観は、子息の第5代執権北条時頼に受け継がれます。
1253年、その時頼が建長寺を建立。それまで寺院の多くが、戦で亡くなった人々の菩提を弔うためであったのを超え、願文にこう著されます。「建長寺は、国土全体を視野に入れて天皇と将軍のための祈祷を司る……」。ここに私は、「上東門院→松下禅尼→北条時頼」という「精神の系譜」を見出しています。
織田百合子
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