鎌倉と源氏物語〈第18回〉 後嵯峨天皇と『源氏物語』と鎌倉
「武士の都」として知られる鎌倉ですが、『源氏物語』と深い関係があることはあまり知られていません。文化薫る歴史を辿ります。
北山准后の娘である大宮院と後嵯峨天皇の間にお生まれになった方が、『とはずがたり』の作者の二条を寵愛した後深草天皇です。
鎌倉幕府と朝廷が戦った承久の乱で鎌倉方が勝利したために、後嵯峨天皇は幕府の決断で即位されました。そのため、後嵯峨天皇はそれまでの朝廷とは打って変わって、幕府と親密な関係を築いていかれます。その一つの顕れが皇子・宗尊親王の第6代将軍としての鎌倉下向でした。
後嵯峨天皇が目指されたのは藤原道長の時代のような宮廷文化の復興です。それで亀山離宮を造営されたり、『源氏物語』を重要視して学んだりされます。鎌倉の『源氏物語』である「河内本源氏物語」も御覧になっていられます。
二条は後嵯峨院の崩御に立ち合いました。崩御が迫って亀山離宮に移られた時、二条も後深草院とともに参上して見守ったのでした。
鎌倉幕府の出先機関である北方南方の両六波羅探題も見舞に訪れます。その時の南方が第8代執権時宗の兄・時輔でした。2月9日のことです。
しかし15日、都の方に夥しい煙があがっているのを二条は見ます。訊くと、「南方の時輔が討たれた」とのこと。世にいう「二月騒動」です。
二条は明日をも知れぬ後嵯峨院を見舞にきた時輔が先立つなんてと、「あへなさ申すばかりなし」と『とはずがたり』に記しました。嵐山の亀山離宮の跡地には現在、天龍寺が建っています。
織田百合子
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