鶴見駅と新子安駅間の滝坂踏切付近で発生し、161人が犠牲となった1963年の鶴見事故。戦後最悪ともされる鉄道事故を風化させまいと、現場付近にある供養塔で発生日の9日、岸谷第四自治会(持丸留久会長)が、はじめて慰霊祭を行った。「月日は供養塔を記念モニュメントに変えた。伝えていくことが地元の役割」と持丸会長は企画の意図を話す。
鶴見事故は、1963年11月9日午後9時40分ごろ、東海道本線で脱線した下り貨物列車に、横須賀線の上下旅客列車が衝突した多重事故。
発生現場付近、岸谷1丁目の線路沿いに建つ「国鉄鶴見事故遭難者供養之塔」は、遺族らにより建立された。現在は、JRと一部遺族が、慰霊碑のある總持寺で毎年同日に慰霊祭を行ったあと、献花に訪れるほか、JR職員が年4回ほど清掃しているという。
記憶の風化とめる
事故後すぐは、自治会でも供養してきたが、住民の入れ替わりもあり、いつしかそれも途絶えてしまった。
「発生から53年。昔から住んでいる人たち以外は、事故のことはもちろん、供養塔があることすら知らない人が多くなった」と持丸会長。地元も知らない無縁仏にせず、悲劇を後世に伝えようと、関係者以外では珍しい、地元主催の慰霊祭実施にいたった。
当日は、地元住民ら約30人が出席。知人が犠牲となったという神奈川区在住の男性の姿もあった。住民らは、時折目の前を列車が走る中、供養塔に花を供え、犠牲者の冥福を祈った。
命の大切さ 子や孫へ
発生当時から住む人たちの中には、悲惨な現場を目の当たりにしたり、救助活動を手伝ったりした人も少なくない。
当時、生麦側に住んでいたという村本栄子さん(78)は、最初の脱線に気づき、衝突する瞬間を目撃した。「ものすごい音で、怖さでふるえた」と振り返る。
乗客3人と共に救助にあたった眞生田一昭さん(74)は「何人か運び、足がない人もいた。朝方、明るくなって気づくと服が血だらけだった」と壮絶さを語る。
慰霊祭当日、眞生田さんが事故翌朝に撮ったという8ミリフィルムの上映もあった。映像には、傾く車両のそばで国鉄職員や報道陣、やじ馬がごった返す現場の様子や、開通後に列車の乗客から花が投げられる様子などが映っていた。
「悲しい事故があったことを通し、命の大切さを子どもや孫の世代にも伝えたい」と持丸会長。今後も継続していく考えだ。
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