谷崎潤一郎と鶴見の意外な関係 谷崎は鶴見で「源氏物語」を書いた!? 文・写真 鶴見歴史の会 齋藤 美枝
昭和6年頃、上山草人(本名三田貞)は鶴見区豊岡に居を構えた。関西から上京する谷崎潤一郎は、草人宅を東京の定宿とし、中学生になっていた草人の長男に口述筆記をさせた。谷崎が逗留する草人宅には、『改造』を創刊した山本実彦、谷崎に『源氏物語』の現代語訳を勧めた中央公論社長の嶋中雄作や岡田時彦、川口松太郎、岡田嘉子なども訪ねてきた。
月に一度、「文豪、やど代を払うですな」と草人が言う。谷崎が「そんなものはいらんです。短冊を書きます」。珍問答を交わしながら、谷崎は宿泊代の代わりと言って短冊に、「草人は鼻の頭にメシをつけてへをこきながら友をもてなす」と書いた。妻で女優の山川浦路をアメリカに残してきた草人は直子と再婚。一子松五郎が生まれると、「草人は昔の如くかはらねど妻は新し子はいとけなし」とも書いた。全く話にならないと、草人はざれ歌の大半は破り捨てたが、中にはまともなことも書いてあった。「文豪筆の短冊がいっぱいたまったが、戦争と鼠害でほとんど失い、惜しいことをした」と、草人が述懐している。
谷崎は、昭和8年11月末から一か月近く鶴見の草人宅に滞在して新年原稿などを書いた。後に谷崎夫人となる根津松子も大事にしていた翡翠の指輪を売った三百円を持って上京し、草人宅に泊った。翌年1月には帝国ホテルに泊まっていた松子が肺炎になり、草人宅に移り、谷崎や直子らが半月間不眠不休の看病を続けた。松子の肌着はすべて谷崎が風呂場で洗濯をしたという。
草人は、『谷崎潤一郎との四十年』に、「『文章読本』や『源氏物語』やその他の傑作をこゝの2階で書いている」と書いている。昭和10年12月、谷崎は草人の着物を借りて、鶴見の草人宅の庭で読売新聞の取材を受けている。
釣りが大好きで、誰にでも愛された上山草人は、豊岡通りの夜店で縁台将棋に興じ、松五郎や近所の子どもたちを連れて三ツ池に釣りに行くなどして、鶴見の人たちにも親しまれていた。
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