「土木事業者・吉田寅松」【8】 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
心労と挫折で長患い、妻の支えで再起
寅松は、その埋め合わせをするために、横浜埋立地の使用権、自分名義の土地建物はもちろん、生家である鶴見の鶴田家の全財産を投じて、ようやく工事を完了することができた。
しかし、無一文になった寅松は心労から倒れ、長い間、病床で過ごす不遇の日が続いた。横浜の知人宅に寄寓し、その日の食事にも事欠くような貧窮な日々が続くなか、妻の芳子は家計をやりくりし、夫を看病し子育てをしながら、寅松と共に債務を整理。業務の継続を図ることに助力した。
妻の看病と支えで再起した寅松は、明治十五年に大阪に行き、長浜・関ヶ原間の鉄道工事を請負った。固い岩盤の掘削工事などで難儀はしたが、無事に竣工させて僅かながら利益を上げることができた。
一筋の光明を見出した明治十七年、神戸に本店を設け、明治二十年まで、東海道線の関ヶ原・名古屋・豊橋間や、武豊港で陸揚げした東海道本線や関西本線などの建設用材を運搬するために計画された武豊・熱田を結ぶ武豊線などの鉄道敷設工事を請負った。
関西で請負った工事は、すべて確実に竣工させた寅松は、土木請負業者としての地歩を確実に固めて行った。
各地の道路改修佐世保軍港埋築工事
明治十七年には長浜警察署の新築工事も請負い、滋賀県から「長浜警察署新築工事完全成功の段奇特の趣をもって」表彰され、明治十八年に愛知病院(名古屋大学医学部附属病院の前身)に百円を寄付し、県令より木杯一個が贈られた。
明治二十年には、愛知県名古屋の道路の改修費や滋賀県犬上郡の多賀道路に、それぞれ百円ずつを寄付し、両県知事より各木杯一組が贈られた。滋賀県庁舎建築に際して百五円を寄付して、滋賀県知事より木杯一組が贈られた。
一方、滋賀県内の日野・水口間の道路修築工事を請負った時は、迅速に落成させたとして道路修築発起者から表謝として二十五円が贈られている。
その後も、寅松は、さまざまな公益事業や慈善事業に寄付を続けていくことからも、吉田組の請負事業が順調に、確実に進んでいたことがうかがえる。
東海道線や武豊線の工事の便もあり、明治二十年に吉田組の本店を名古屋に移した。明治政府が巨額の国費と技術の粋を集中して、長崎県の佐世保に近代的な軍港整備を進めることになった。
横浜港の象の鼻ふ頭建設の経験もある吉田組も軍港埋築の土木工事を請負い、明治二十二年七月、日本海軍の佐世保鎮守府が開庁し、翌年四月に明治天皇臨席のもと開庁式が挙行された。
明治二十一年から水戸・小山間、一関・盛岡間など東北本線の鉄道工事を請負うようになった吉田組は、明治二十二年に東京に進出し、芝区芝公園内第七号地に本店を構えた。
|
|
|
|
|
|
|
<PR>