「土木事業者・吉田寅松」㉚ 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
土木業者が競い合って建設した奥州線
奥州線(現在の東北本線)は、明治十八年に宇都宮まで開通し、明治二十年十二月に福島駅や仙台駅が開業し、江戸時代には江戸から仙台まで行くのに十日以上もかかっていた旅程が、鉄道の開通により、上野・仙台間が十二時間二十分で結ばれた。
当時の鉄道建設は、鉄道局の技師の監督のもと、請負業者たちによって工事がすすめられた。
上野・高崎区間の工事の大半は鹿島組が請け負ったが、福島以北については、鹿島組、吉田組、早川組、その他盛岡などの新興の地元請負業者が参入した。
土木業者間で互いに力を競いながら、工事をすすめたが、資力と経験豊富な鹿島組と吉田組は、当局の信頼も厚く、作業員たちもよく働き効率を上げていた。
明治二十一年四月に起工した仙台・盛岡間の線路は、仙台から国道に沿うようにして北上川流域をさかのぼりながら鉄路を伸ばしていった。
六十分の一もの急勾配や和賀川や雫石川の橋梁建設などの難工事も多かった。なかでも雫石川の橋梁は区間中最大の工事だった。
明治二十二年竣工予定で工期が短かったため、鉄道技師たちは請負業者たちに対して万事、簡略速成にして完全なる工事を督励し、土木工事が完了する間もなく線路を敷き、一刻の猶予もなく一気呵成の勢いで工事をすすめさせた。
土木業者たちは、隣接する両側の区間から線路が敷かれてくることを恥として、他区間におくれを取らぬよう、互いに競争しながら昼夜兼行で工事をすすめた。
青年技師の溺死
明治二十三年に大洪水があり、橋梁や築堤の工事で被害を受けた。
大洪水で前途有為の二人の技師が溺死するという悲惨な事故も起きた。
好摩に近い松川橋梁工事を監督していた鉄道技師は、イギリスの大学で鉄道学や測量学を学び、将来を嘱望されていた新進気鋭の技師、大久保業だった。
大久保業は、勝海舟と共に江戸無血開城に導いた政治家で、東京府知事もつとめた大久保一翁の嗣子で、資性正しく品格のある誠実な技師だった。工事施工には極めて厳しい人物で、常に長靴をはき、雨天の時は必ず現場をまわって点検を怠らなかった。
松川橋梁工事中、洪水で橋脚の基礎が洗われ危険な状態になっていた時、大久保技師は同僚と二人で渦巻く濁流の中を小舟で現場へ向かった。舟中から橋脚を点検中に船が濁流に飲まれ転覆し溺死した。鉄道建設のための土木工事は、常に危険と隣り合わせていた。
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