「土木事業者・吉田寅松」38 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
急勾配の大釈迦隧道開削(だいしゃかずいどうかいさく)
奥羽山脈でへだたれた地に鉄路をひらく南線に比べれば、津軽平野、能代平野、秋田平野など低地が多い北線は比較的難所は少なかった。が、吉田寅松の吉田組が請け負った工区には、秋田と青森の県境に位置する矢立峠と並び、奥羽北線で一、二を争う難所の大釈迦隧道があった。
約二百七十メートルで北線第三の長い隧道は、青森を出て間もない鶴ヶ坂渓谷からつづく紆余曲折した急こう配をのぼった大釈迦峠の頂きに開削するトンネルだった。
大釈迦隧道開削工事は、難航をきわめた碓氷峠の直後だったので、寅松は、碓氷峠の工事にたずさわった職人たちを呼び寄せ工事にあたらせた。
工事は北口から掘りはじめた。真っ暗闇の坑内を菜種油で灯すカンテラのほの暗い明かりを頼りにツルハシをふるって掘りすすみ、掘り起こした土砂や岩石は蔓で編んだモッコに入れて担ぎ出す。換気装置もない坑内で不完全燃焼するカンテラの油煙がたちこめ視界はさえぎられ、粉塵まじりの汚れた空気で呼吸も困難になり、しばしば工事を中断しなければならなかった。
豪雪のなかで、作業員たちは真黒になってはたらき、先行導坑を貫通させて本坑道を五十メートル程掘りすすんだ明治二十七年三月、落盤事故がおきた。
坑内は細砂の地層だったため、坑内にあふれた地下水が砂の層を洗い流し、さらに地震で水路が拡大したため支保工では支えきれず崩壊した。
崩壊土砂の上部、坑道に沿ってできた幅三・六メートル、高さ十五メートルの空洞を埋めるため、隧道に並行して走る国道から二十六メートルの横坑を掘って土砂を搬入した。
開削中の隧道は、四十分の一の急こう配の上り坂の途中にあり、崩壊箇所から南口までは深くたまった地下水にもはばまれ工事は中断させられるなど難航した。が、碓氷峠の難工事で培った吉田組の技術力で苦難を乗り切り、十月に大釈迦隧道を開通させて、明治二十七年十二月一日に青森・弘前間の開業をみちびいた。
鷹ノ巣駅近くの隧道が四か所ある第十六工区も中山慶介を代人として吉田組が請け負い、明治三十二年十一月に着手した。この工区の急斜面に開削する第三号隧道の地盤は、水分を含んだ粘土質の土壌で、切りとるにしたがい崩落しつづけ、崩落土砂の量は一万坪にもおよんだ。
崩落を防止するため斜面に土留めの巨大な擁護壁を築き、二年の歳月をかけて明治三十四年十月にようやく竣工させることができた。
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