「土木事業者・吉田寅松」40 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
たとえ火の中、水の中
無類の酒好きで一週間も料理屋に逗留して飲み続けるという豪胆な熊谷は、部下の面倒もよく見る親方だった。部下たちはギャング連と違い、「親方のためなら、たとえ火の中、水の中」と各現場について行き、寝食を共にしながら、熊谷の手足となって働き、作業効率を上げていった。
熊谷は後藤傳次郎の手足となり、後藤傳次郎や中山慶助が吉田寅松の手となり足となり、目となって、土木請負業吉田組は、奥羽北線の入札に参加し、数か所の工区を請け負った。
豪雪との闘い
明治二十六年七月に青森側から奥羽北線工事に着工したが、明治二十七年に起きた日清戦争で労働者や物資が不足し、十八銭だった日当が五十銭にも跳ね上がった。各事業者は労働力や物資の確保に苦労し、東北特有の気候にも苦しめられた。
奥羽地方は、名にし負う世界有数の豪雪地帯。シベリアから日本海を渡って吹き付ける湿り気を帯びた季節風が十一月から大雪を降らせ十二月には大地を覆い、一月から二月には更に厳しい寒波が襲ってくる。冬将軍に工事を阻まれ、三月から四月の融雪期には雪どけ水で増水した川が氾濫して作業は遅々として進まない。まともに工事ができるのは四月から十月の間だけだが、梅雨の時期も作業は滞る。
悪天候にも悩まされる中、長期の工期を要する橋梁の架設や、雪に覆われた急こう配で険阻な山や谷を切り開いて鉄路を伸ばす土木工事は、筆舌に尽くせない難工事の連続だった。大地が雪に覆われてしまう冬季は、防護設備を施して工事をすすめたが、冬季四か月の作業量は夏季の一か月分にも及ばなかった。
青森から工事が始まった奥羽北線は、岩木川流域の津軽平野を横断し、矢立峠を越えて米代川流域へ下り、能代平地に出て日本海沿岸の低地を走り、雄物川流域を遡り、横手盆地を縦走して湯沢に至り、福島から米沢、山形を経て湯沢に至る奥羽南線と連絡する。
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