谷崎潤一郎と鶴見の意外な関係 花月園舞踏場から生まれた『痴人の愛』 文・写真 鶴見歴史の会 齋藤 美枝
大正3年、日本で最初の児童遊園地鶴見花月園が開業し、大正9年には、日本で最初の営業用ダンスホールが開場した。京浜第一の大舞踏場では、毎週水曜・土曜・日曜に東京から一流のバンドを呼んで舞踏会が開かれ、華やかな夜会服を身にまとった百組もの紳士淑女がつどった。大正末期から昭和初期にかけて音楽とダンスと英語は「海の彼方の国々や世にも妙なる異国の花園を思い出させる文化生活」の象徴であった。
月曜と金曜は、ダンスの名手マダム平岡が、松田ランプの社員たちや浅野造船の英国人技師、作家の久米正雄などにダンスの手ほどきをした。土曜の夜の舞踏会では、谷崎潤一郎が瞬きもせずにダンスに見入っていた。谷崎夫人・千代をめぐって絶交中の佐藤春夫も、ホールの反対側で憂鬱そうに眺めていた。
谷崎は、花月園のホテル滞在中にマダム平岡の手ほどきをうけてダンスが大好きになった。その後、家族や今東光たちと一緒によく踊りに来た。久米正雄の『私の社交ダンス』には、「この悪魔主義の作家が可愛い鮎子ちゃんの手を取って、室の隅っこの方で、鮎子ちゃんよりもたどたどしいステップを踏みながら、踊っているのを見るのも、決して悪い感じではなかった」とある。
谷崎は千代夫人の妹で女優の葉山三千子とも踊りに来た。三千子は谷崎著『痴人の愛』のナオミのモデルである。作中では、28歳の電気技師譲治がカフェで出会った15歳の美少女ナオミを理想の女性に仕立てあげようとして音楽や英語、そしてダンスを習わせた。譲治とナオミは花月園にも踊りに来た。ダンスも英語も上手になり、日ごとに美しさを増すナオミは、若い男と密会し、譲治を裏切り続ける。欺かれ続けられながらも、ナオミの肉体のとりこになった譲治は、破滅の道を歩み続ける。
谷崎潤一郎の耽美主義文学の道を開いた『痴人の愛』は、当時の最先端の社交場であった花月園舞踏場から生まれた。
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