「土木事業者・吉田寅松」33 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
鉄道請負組合創設
明治維新後、文明開化の波が鉄道建設だけでなく、官公庁、学校、病院、道路、港湾、河川改修、電信、電話、上下水道など、さまざまなインフラ整備が急ピッチですすめられ、土木工事の需要も増していた。
土木請負業者が仕事ほしさに無謀な競争をし、無理な価格で工事を引き受ければ、発注する企業にとっては一時的に利益をもたらすが、業者は苦し紛れに不良資材を使った杜撰な手抜き工事をせざるを得ない。賄賂を贈るなどの弊害が続出することが予想される。その結果、企業にも不利益をもたらすことになり、企業も請負業者も共倒れになってしまう。
明治十七年に東京市内の土木工事請負の親方たちが採算の合わない低価格で土木工事を引き受けることを防ぎ、よりよい土木工事をおこなうことを目的として土工組合を結成した。
さらに明治三十二年、鹿島組の鹿島岩蔵、吉田組の吉田寅松、杉井組の杉井定吉、間組(現・安藤ハザマ)の間猛馬、大倉組(現・大成建設)の大倉粂馬(大倉喜八郎の婿養子)、橋本組の橋本忠次郎、佐藤組の佐藤成教など、全国各地の鉄道建設工事に携わっていた土木請負業者十八名が相集い、日本土木組合を創設した。
鉄道工事請負業者は、全国各地の津々浦々で進められている土木工事、橋梁、港湾、隧道などの大工事を請負い、専門の技術者を配置し、多数の労働者をかかえて多額な資金を支払っていた。
日本土木組合は、企業、請負業の共存共栄を目的として無謀な競争を防ぎ適正な価格で工事を請け負い、福利を増進し、さまざまな弊害をただして業務の発展を期して創設された。
吉田寅松の吉田組が全国的に展開する土木工事は、信頼のおける確かな技術と指導力のある「代人」と呼ばれる吉田組高級幹部と妻芳子の存在なしでは成しえなかった。
内藤富士松、中山希賢、西川孝信、中山慶助、後藤傳五郎、清水恒三郎など、いずれ劣らぬ錚々たる人物が、寅松の代人として各地で請け負った工事現場で、政府技官の指示のもと、大勢の作業員を督励した。寅松も全国各地の工事現場を足しげく巡回し、進捗状況を厳しく検分した。
明治三十六年頃ごろ、吉田組に特命された弘前駅より弘前師団まで約一マイルの臨時軍用線工事は、中山慶助が代人として施工した。
生来、派手好みの清水恒三郎は、鉄道開通式には無蓋車に着飾った芸者衆をいっぱい乗せてきて、群衆に祝いふるまいとしてミカンと一緒に銀貨や銅銭を撒き散らし、吉田組の豪勢ぶりを披歴した。
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