終戦から70年―。本紙では、戦争の惨禍を間近で目撃した瀬谷区民へ取材を実施。ともに小学校低学年で終戦を迎えた橋戸在住の関口武さん(78)・絢子さん(76)夫妻に話を伺った。
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夫の関口武さんは1937年、埼玉県大宮市生まれ。空襲が激しくなったのは国民学校(現在の小学校)2年生の頃だった。空襲警報が鳴ると授業を中断し、子どもたちは防空頭巾を被って、それぞれ家路を急いだ。「登校と帰宅の繰り返し。落ち着いて授業を受けた記憶はない」
ある日の昼間、アメリカ軍の戦闘機が頭上を飛んでいく様子を目撃。必死に逃げていた時、操縦席に乗った兵士の顔が見えた。わずか100mほどの距離だったという。大宮の市街地が空襲を受け、一夜にして焼野原に激変してしまったことは、鮮明な記憶として残っていると武さんは話す。
「あと数cmで自分だった」
妻の絢子さんもまた、空襲の記憶を辿(たど)る。1945年8月5日、前橋市大空襲を経験。当時小学1年生だった絢子さんはその夜、鳴り止まない空襲警報のサイレンを聞いた。眼前には、B29爆撃機が落とす焼夷弾で一面真っ赤に染まる街。「逃げろ」という声に煽られ、一家で4Km離れた親戚の家へ向かった。逃げる途中、バサッという音とともに目の前にいた少女の姿が消えた。「私と同じくらいの年齢の子だった。あと10cmほどで私が死んでいたと思うと、忘れられない」
翌日、親戚の家から自宅へ帰る道端で、「両側を見ないように」と両親が言った。折り重なったおびただしい数の死体を、子どもたちに見せまいとした発言だった。さらに、焼夷弾の破片が足や背中に刺さり呻(うめ)き苦しむ人の声や、死体の焼けた匂いなど、当時小学生の絢子さんが五感で経験した戦争の記憶は、今も刻まれている。
終戦後も続く苦しみ
8月15日、終戦。「もう戦争は終わったよ」と聞いた絢子さんは、幼心に安堵したと振り返る。しかし、すべてが終わったわけではなかった。焼野原となった日本は深刻な食糧難。米がなく、サツマイモや麦などを入れて嵩(かさ)を増す「ばっかり飯」や、どんぐりを食料にすることもあったという。
「怖かったね、で終わりではない。影響はずっと続いていく。平和の手段としての戦争はなく、始めてはいけないもの」と絢子さん。武さんも「子どもの時は何も疑わず、大人を信じ切っていた。教育すらもコントロールされていたことは怖い」と話す。
また、安全保障関連法案で揺れ動く日本について、「戦前のような空気に感じる。見上げて行くところが平和でないと。戦争を体験した者として、黙っているわけにはいかない。出来る限り証言していきたい」と思いを語った。
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