満州で生まれ、5歳までを満州で過ごした平木実子さん。その後も技術者の父親に付き添い、一家で日本や朝鮮など各地を行き来し、引揚を経験した。
終戦を迎えたのは数え年で15歳、朝鮮の公立高等女子師範学校に通っていた時のことだった。他の生徒たちと玉音放送を聞き、「皆、何なに?となった。私たちはどうなるの?と言い合った」と当時の不安に満ちた様子を思い返す。
日本の敗戦が分かると、中国や朝鮮半島に移住していた日本人は引揚を行った。平木さんも両親、兄、妹とともに脱走を実行。しかし、8月9日、ソ連軍が朝鮮半島北部に侵攻したことによって北緯38度線が境界線と定められ、周辺が封鎖。人々の南下には困難が伴った。「日本人と分かったら殺される」。極度の恐怖と戦いながら、ソ連兵などに見つからないよう山道を慎重に進んで行ったが、兄の知人は銃弾を受け亡くなった。北緯38度線に辿り着いた後も1週間ほど周辺をさまよい続けたという。監視の目をくぐって38度線を越え、海水に浸かりながら何とか船に乗り込み、朝鮮を後にした。
10月15日、福岡県の博多港へ到着。全員赤痢の検査が必要だったため、上陸を止められた。「早く日本の土を踏みたいと強く思った」と振り返る。帰国後、平木さんは家計を助けるため、警察署で働いた。
困難を極めた道程は、未だに薄れることはない。ある時、偶然通りかかった中学生に戦争体験の話をすると、じっくり聞き入ってくれたという。「先だけを見るのではなく、国の足下を」。そんな思いが70年経った今、平木さんにはある。
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