「鶴見区親と子の原爆パネル展」の実行委員長を務める 斉藤 キヨ子さん 下末吉在住 68歳
平和な未来を子どもへ
○…10回目を迎えた原爆パネル展の初開催から、実行委員長として平和を訴えてきた。40年前から生活協同組合に加入しており、組合員活動は、20年ほど前から近所の知人から誘われて参加するようになった。原爆展は組合活動を知ってもらおうと、区役所のスペースを借りて何かできないか、区に提案したことがきっかけ。展示には毎年約1200人が来場するという。東日本大震災で福島第一原発の事故が起きてからは、「来場者はさらに増えたような気がする」という。
○…第二次世界大戦の終結を目前にした1944年に横浜で生まれ、生後間もなくして疎開した。「ワラの布団で寝起きしたことが印象に残っている。なぜこんな貧しいのかと思っていた」。当時の経験は、平和や戦争を考えるきっかけのひとつとなった。福島で育ち、15歳で埼玉の繊維関係の会社へ集団就職した。「時代は高度成長期。働き手になる当時の私の年代は、『金の卵』なんて言われていた」。働く仲間のほとんどは同郷で、「おかげで言葉には苦労しなかった」と笑う。
○…「困っている人を道端で見つけると、つい声をかけてしまう」。正義感が強く、助けを必要としている人を放っておけない性格だ。ベトナム戦争の時、現地の子どもたちのために、カンパを送るため奔走したこともある。「詩や短歌を書くのが趣味だったので、詩集を作って売って、カンパを集めた」と振り返る。
○…育ての故郷は、福島第一原発から40キロ圏内。震災後、原爆展への思い入れはさらに強くなったという。「親戚や同級生はそのまま住んでおり、心配している。原発や核兵器を無くしたいという気持ちはより大きくなった」。原爆展の来場者の中には、「長く続けていって」と感想を残していく人もいる。「疎開時代に経験した貧しい思いを、未来の子どもたちには味わってほしくない。これからも平和の大切さを伝え続けていきたい」
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