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麻生区版 公開:2016年5月20日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第79回 秀吉の天下統一間近 その時麻生で起きた事は(1) NHK大河ドラマ「真田丸をより深く知る」前編

公開:2016年5月20日

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 応仁の乱から1世紀が過ぎ、長く続いた戦国の世もようやく一つになろうとする兆しが見えてきた1582年、武田氏は滅び、織田信長は明智光秀の謀反で本能寺にて自害。やがて信長に変わって天下統一を進めたのが豊臣秀吉でした。1583年には難攻不落といわれる大阪城を築き、1585年には、朝廷より関白(天皇を補佐し政治を行う役職)に任ぜられ、政治の実権を握るようになりました。1587年にはその権限を使い、「惣無事令」を発し、全国の戦国大名に交戦の即時停止、領土の帰属を秀吉の裁定に委ねるよう命令を出し、九州・四国を平定しました。そのような中、関東では真田昌幸、徳川家康、上杉景勝が秀吉に臣従したことにより信濃・甲斐・上野(こうずけ=現在の群馬県)での争いの種は無くなりました。しかし関東の大部分を支配していた北条氏は、上野の沼田(真田氏の領地)の領有についてわだかまりを持ち、秀吉に対して臣従の態度を示さず膠着状態が続いていました。1589年春ようやく秀吉との交渉が成立し、「◎沼田三万石の地を3等分し3分の2を北条が領有し、残り3分の1に当たる名胡桃(なぐるみ)の地は真田氏の墳墓の地であるから真田領とし、真田が失う3分の2の土地については家康が代償する◎北条氏政・氏直父子のいずれかが速やかに上洛する(秀吉に臣従することを示す)」ということで合意が成立しました。

 ところが同年10月のこと、沼田城城代となった北条氏邦(3代北条氏康の3男)の家臣、猪俣邦憲が対岸にあった名胡桃城を守備していた真田の家臣、鈴木主水(もんど)を計略にかけ、城を奪ってしまうという事件が起きました。真田はすぐに秀吉に報告。これを受けた秀吉は既に公布されている「惣無事令」に違反するとのことで11月24日、北条氏直に対して宣戦布告の書状を出しました。さらに傘下の諸大名に命じ、米や雑穀の兵糧を約20万石(石油の1斗缶で200万個)を集めさせ、馬やその餌になる穀物の準備のため当時の天正大判で1万枚(当時の貨幣価値で換算すると約200億円以上)を集め、更に軍勢約21万人という大軍を結集させました。【次回へ続く】

 参考資料:「川崎市史」「ふるさとは語る」 文:板倉敏郎
 

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