連載 地図・絵図で見る瀬谷の生い立ち 第3回 新田開発の時代と「瀬谷野新田」(現・二ツ橋周辺)文/横浜・瀬谷地図くらぶ 田中常義
新田開発は、江戸時代の年貢の増徴策として、戦国末期から江戸時代中期に、幕府が諸藩に奨励した。瀬谷の場合は主に畑地の開墾であった。《相模国図》時代の瀬谷地域には、瀬谷村・瀬谷野新田・宮沢村・阿久和村があった[『天保郷帳』1834(天保5年)]。
瀬谷野新田は、”古は茅原にて藤沢御殿ありし頃は萱千駄を刈りて奉り・・その後、開墾の事成り”とあり、現・瀬谷区役所周辺の字「千駄野」周辺と考えられ、天正年間(1573〜1593)に露木甚五左衛門らが開墾したという。慶長年間(1596〜1615)は、村名は未詳だが「二ツ橋」と呼ばれ、藤沢宿の”持添(もちそえ)”(古田畑の地続きの開墾、『地方凡例録上巻』)とされ、”民戸30・・中原道村内を貫く”とある。
|
|
|
|
|
|