連載 地図・絵図で見る瀬谷の生い立ち 第4回 鷹狩り御用時代の瀬谷文/横浜・瀬谷地図くらぶ 田中常義
鷹狩は飼育する鷹(オオタカ・ツミ・クマワシ・ハヤブサなど)に鳥獣を捕らえさせる狩猟であり、徳川幕府・各藩は領内に鷹場を設け遊楽の一つとして重視した。鷹場は将軍が拳(こぶし)に鷹を捉える動作から「御拳(こぶし)場」とも呼ばれた。(本間清利『御鷹場』昭和56)
享保17、18年(1732、1733)頃、瀬谷の野原にも多く鳥獣が生息したとみえ、天保期(1841年代)に中原御殿への道すがら、鷹狩するための手伝い依頼の文書が残されている(『瀬谷区の歴史(生活資料編二)』)。
瀬谷村の耕地には見晴らし用の鷹番小屋のための築山(「鷹見塚」)が2か所見える。1か所(市道環状4号線沿い海軍道路本郷橋付近)は消滅し、現存する瀬谷駅踏切近くのものは最近、木々が伐採されたのは残念だが、地名の「山野(さんや)」は鷹狩にふさわしい土地柄だったのだろうか。
出典…(基図は陸地測量部「明治39年測図、42年製版2万分一」地形図)
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