連載 地図・絵図で見る瀬谷の生い立ち 第14回 『皇国地誌』にみる瀬谷と周辺集落の暮し その2 明治初期の境川と瀬谷地域の「堀」文/横浜・瀬谷地図くらぶ 田中常義
境川は、“(瀬谷村)西北ノ隅、多摩郡鶴間村ヨリ来タリ西界ヲ巡リ尺蠖(せきかく)(意味:シャクトリムシ)、或ハ蛇龍(だりゅう)(意味:蛇)ノ蟠結(はんけつ)(意味:うねる)シテ経流”し、主に田圃の灌漑用水。
川は「堀」と呼ばれ、瀬谷村の長谷堀(相沢川)・中堀(大門川)・東堀(和泉川)、二ツ橋の(和泉川)中丸堀・二ツ橋堀、宮沢村に、宮沢堀・赤間堀は田2町9反7畝28歩(約2・9ヘクタール)を灌漑した。阿久和村には、丸山堀・柳堀・下リ堀、溜池は鎌取(約0・5ヘクタール)・柳谷戸(約0・1ヘクタール)があった。
▽基図:明治39年実測42年製版(下)黄色:田圃/赤:桑畑/白地:林▽瀬谷村反別入図(たんべついりず)(丁号略図)明治17年12月
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