2021年は丑(うし)年。麻生区域内ではかつて、牛が放牧され、乳製品を税として朝廷に納めていたという。麻生と牛の関係が「牛塚」として残され、地元歴史研究家らが文献を調べるなどして現在に伝えている。
王禅寺東6丁目の民家の庭に「牛塚」はある。少し盛り上がったところに鳥居と祠(ほこら)が建つ。江戸時代後期に編集された『新編武蔵風土記稿」にも「牛塚」の文字が見られる。
柿生郷土史料館が発行する情報・研究誌『柿生文化』57号(2013年2月1日)には「牛は農事と深い関係があり、『牛神』を祀るために作られた塚であったか、もともと古墳として作られた塚を祭祀用に再利用したと考えられ」ると記している。
この研究を寄稿した柿生中学校元校長の板倉敏郎さんは「平安時代のころから、麻生では牛の放牧が行われていたのでは」と話す。平安当時、武蔵の国に『石川の牧』と呼ばれる牛馬を放し飼いする牧場があったと延喜式に記載されている。今の横浜市青葉区元石川町周辺とみられ、板倉さんは「東日本では酪農が盛んに行われ、牛乳から作った蘇(そ=牛乳を煮詰めてチーズ状にしたもの)を朝廷に納めた記録が延喜式に残っている。石川の牧でも行われていたのでは」と考察する。
それを裏付ける資料が残っている。14世紀の麻生の姿を示すもので、康永四(1345)年2月の日付で、『麻生郷内の本郷・堀内は”乳牛役”を受けているので、以前からの決まりでこの郷は税など免除されているのを承知してもらいたい』と当時の守護代が寄進先の保寧寺の長老に宛てた手紙だ(岡本家文書)。乳牛役は蘇を作り献上する役とみられる。
この薬としても使われていた”蘇”だが、板倉さんは、「なぜ麻生で蘇が作られたのか。牧畜として良い条件がそろっている場所はほかにもあったはず」と疑問を持つ。
宗教儀式に使用か
「鎌倉時代末期の『花園天皇宸記』に貢蘇を密教寺院に下賜されたとの記述があり、一方、密教教法を調べると護摩焚きには蘇が不可欠とも記されている」とし、一つの可能性を導いた。護摩焚きの際、油脂分の多い蘇を火に振り込み火勢を強め、修法力を高めたと考えられることから、板倉さんは「なぜ麻生で蘇が作られたかと言えば、麻生―蘇―真言密教―真言宗の古刹王禅寺・東光院の関係が浮かび上がってくる」という。
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