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麻生区版 公開:2012年10月19日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第26回 生麦事件の真相を探る(1)-なぜイギリス人は殺害されたか-

公開:2012年10月19日

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 今年は生麦事件発生150年となります。この事件は柿生からも近い横浜市鶴見区生麦で発生しました。

 江戸幕府の土台を揺るがし日本の近代化のきっかけにもなった重大な事件でした。残念ながら最近の中学校の教科書には「生麦事件」という文言も出てこないのが多いようです。

 以前の教科書には「1862年薩摩藩の行列に乗馬のまま横切ろうとしたイギリス人が殺害された」というくらいの文章で書かれていました。しかし、この記述には少し誤りがあります。果たしてその真相はどうだったのか調べてみますと意外なことが分かってきました。昭和12年の「国史教育」に94歳の久木村治休という人物が「生麦事件で夷人(外国人)を殺した私」(口述筆記)という題でその体験談を述べていますので紹介します。

 文久2年(1862年)薩摩藩主島津久光は朝廷の特使大原重徳(オオハラシゲトミ)の護衛として京都から江戸へ赴きました。8月21日(新暦の9月24日)特使より先に帰途につき、三田(東京都港区)の薩摩屋敷を総勢300名(別の資料では400名)の藩士を引き連れ早朝出発しました。先頭は足軽、次は挟箱(ハサミバコ=衣類や甲冑などを入れる箱)組、鉄砲組などで主君の駕籠はそのずっと後方で、回りを多数の御駕籠脇護衛の藩士に守られていました。

 ちょうど午後2時頃、東海道の生麦(横浜市鶴見区生麦4丁目25番地付近)を通過中、4名の馬に乗った異人(イギリス人の男性3名、女性1名)が横浜方面からやってきました。一行は少しためらいながら行列から見て右側にいましたが、左側に位置をずらし、おとなしく乗馬したまま通っていきました。やがて藩主の駕籠が近づいてくると、警護の藩士の数も多くなり、2列縦隊であった行列は道路いっぱいにふくれあがっていました。4人の異人は道路左側に押しやられ、藩士たちは異人に引き返せと合図をしました。

 異人は馬を逆方向にまわし引き返そうとしましたが、その時はもう駕籠がすぐ近くまできていました。この様子を見ていた藩士の奈良原喜左衛門は駕籠脇から飛んできて、群がる藩士たちを押し分けて「異人無礼」と一声叫んで馬上の異人(イギリス商人リチャードソン)めがけて一太刀をあびせましたが失敗。さらに「仕損じたか」と叫びつつ、第2の太刀で左わき腹を斜め下に切りつけました。驚いた異人は悲鳴をあげて脇腹を押さえながら馬に乗って元の道をあわてて引き返しますが、前方で待ち構えていた久木村治休にさらに脇腹を切りつけられ、逃げる途中で臓腑のようなものを落としながら、それでも馬を走らせました。やがて現在の生麦1丁目(キリンビバレッジ前)の大樹の傍らで落馬し、道端の草をかきむしって血を拭き、しきりに「ミズ、ミズ」と叫んでいましたが、村人は怖くて近寄れませんでした。その後、追いついた藩士の海江田武次が苦しむリチャードソンの様子を見て哀れに思い、喉にとどめをさしました。死骸は引っ張って畑の脇の溝の中に引きずり込んで、付近の民家からムシロを持ってきてかぶせておいたそうです。

 以上が生麦事件の発生当初の様子です。内容的にはこの様子を見ていた大工徳太郎の女房よしの証言(定御用廻りの届書)や当時生麦村名主の「関口日記」にも残されていますが、若干の相違はあるものの概要はほぼこの様子であったようです。次号では事件の原因などもう少し掘り下げて考えてみます。
 

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