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麻生の歴史を探る 板碑 その2

公開:2014年2月14日

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渡田観音堂の古碑
渡田観音堂の古碑

 日本最古の板碑は埼玉県北部、江南町から出土した嘉禄3年(1227)銘のものだそうですが、それからわずか十数年の間に、前述のように寛元2年(1244)の鴨志田をはじめ、久末、岡上に大型の板碑が建立されました。続いて宮前の有馬に元亨3年(1323)蔵骨器を伴う数基の碑が発見されており、久末・有馬・鴨志田・岡上と都筑丘陵独特の鶴見川本支流で造り出す谷戸谷戸村々村々が他の地に先んじて板碑初発の地となっていることがわかります。このことは当時のこの地方の仏教文化(阿弥陀信仰)の高さを表しています。

 このように多摩丘陵は板碑の多い地域ということができます。板碑は墓地から発見されることが多いため、単純に追善供養のための墓石と考えてしまいがちですが、それだけではなく、生前に自分自身の極楽往生を願い、それを仏陀にすがり碑を造る逆修(ぎゃくしゅ=生前に功徳を積むこと)供養というものも多かったようです。

 この逆修供養の板碑は時代を経るに従い、供養の対象、造立者が変わっていきます。川崎市史によると、暦応4年(1341)高津区千年の岩川不動の板碑には阿弥陀の種子が刻まれ、銘文に見られる「罪深い悪人も極楽往生」を願意の逆修供養の碑もあるそうで、その造立者も当初の武士、僧侶、有力者から、結衆と呼ぶ一般庶民に及びました。その傾向は寛正5年(1464)、麻生区黒川の月待板碑にも見ることができます。

横浜、川崎は板碑先発の地と述べました。それでは隣の稲城、町田市などはどうなのでしょうか。調べてみると稲城市最古の板碑は永仁3年(1295)造立銘のある百村(黒川・坂浜隣接地)の松本家所蔵の高さ46cm、幅28cmと比較的小型ですが、市内で245基確認されています。なかでも平尾(古沢の隣接地)から出土した板碑には銘文に金泥が残っていたそうです。町田市の最古は本町田(金井の先)矢沢家裏山から発見された建治2年(1276)のもので、高さ77cm、幅22cm、阿弥陀如来像が刻まれた典型的板碑です。これは現在町田郷土資料館に収蔵されていますが、町田市内の板碑は全部で634基が確認されています。それらの造立年代を考えますと、この地方の板碑は都筑から多摩へと伝わったことを表しています。

 板碑はその時代、その地方の庶民の生活文化を知る上で貴重と言われていますが、麻生区内には市資料によると135基が確認されています。その造立のピークは室町時代の1361年ごろで、前記岡上の碑のほかにも多くの貴重なものが発見されています。

 高石法雲寺の板碑は、弥陀来迎板碑と呼ぶ、板面中央に飛雲に乗る阿弥陀如来像と2体の菩薩が刻まれた図像板碑です。高さ77cm余、幅3cmで、阿弥陀信仰の貴重なものとなっています。また王禅寺所蔵の板碑は、明治の廃仏毀釈にもかかわらず信仰が絶えなかったので、時の警察がこれを押収しました。ところが警察署内に疫病が蔓延したので板碑の祟りに違いないと丁重に寺に戻された逸話(現古老の話)があります。その霊験ある板碑は、今はひっそりと観音堂境内の小祠に収められています。

 また、細山伊藤家の裏山から20〜30基に及ぶ板碑が出土し農民の阿弥陀信仰が偲ばれます。上麻生滝沢家には文安3年(1446)に同家が阿闍梨(修廣寺の僧)の名で造立した板碑(市教委託)があります。永正5年(1508)造立の金程伊藤家の月待板碑は市内最終のもので、現在は日本民家園に移され民俗資料となっています。

参考資料:「横浜・川崎・町田各市史」「麻生区の神社と仏閣」「高津郷土資料集(坂本彰)」

(文:小島一也)
 

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