麻生の歴史を探る 麻生郷〜麻苧(あさお)〜
麻生郷とはどの地域をいうのでしょうか。先に横浜都筑区茅ヶ崎神社の麻生庄15ケ村の神事を述べましたが、これと同じ記録がお隣の町田市三輪椙山(杉山)神社にあります。それは「2月春分の日麻散〜略〜古ハ当郡麻生庄15ケ村是ヲ勤ムト言フ 文和元年2月 杉山神社祝部」(ふるさと三輪)と記したもので、文和元年(1352年)は尊氏が保寧寺領に禁制を出した年に当たります。この15ケ村がどこであるかは分からず、わかるのは今は行政区が異なっても、茅ケ崎(横浜)、三輪(町田)は麻生郷であったということです。
その反面、現麻生区内でも多摩川水系(五反田川)の高石、細山、金程、向原は麻生郷ではなく小沢郷ですが、古来この地域は橘樹郡と都筑郡の接点で(細山、金程、向原は都筑郡の時あり)、中世稲毛三郎の所領から菅、矢の口、高石、細山、向原、金程などが小沢郷を形成したものと思われます。尊氏が麻生郷に禁制を出した頃の暦応4年(1341年)の史料に「小沢郷金程村、攝津親秀所領」の文書があり、攝津氏は鎌倉幕府の評定衆で北条一族では無く、政変の中、鎌倉以来の所領を維持していたようです。
これと同じ現麻生区黒川は都筑丘陵とは多摩川水系(三沢川)で隔てられた地で、中世武蔵国小山田庄黒河郷と呼ばれ、貞治3年(1362年)鎌倉公方足利基氏(幕府の出先)が縁者と思える御仁々局と呼ぶ者に黒河郷半分を与えた文書があり、そして局は貞治6年鎌倉円覚寺黄梅院にこの地を寄進した書状が今に残り、黒川は麻生郷ではなかったことを説明しています。
時代は経て天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの際、当時北条氏治下だった麻生郷9ケ村に出された兵士の乱暴狼藉を禁ずる禁制(市文化財)が今に残っています。それによるとその9ケ村とは王禅寺村、黒金之郷、三輪之郷、片平之郷、万福寺村、古沢村、石川郷、荏田之郷、大棚之郷以上9ケ村と記されていて、本郷である上・下麻生と早野村はこれに含まれると思われ、広域的地域になっております。
ここに三輪の名があって岡上の名がないのは、この地は地形的に隣接する小山田郷下にあったとされるので、栗木村と同様に黒川と同じ小山田郷に含まれていたから、と思われます。したがって麻生郷には9ケ村に加え、鶴見川流域の現青葉区寺家、鴨志田、成合などが含まれていたと考えられ、そこには杉山神社があり、前述した「麻生庄15ケ村」を窺い知ることができます。
本来、郷は数ケ村からなる郡下の行政組織で、年貢納入の単位であったようですが、時代とともに庄・郷・村が混在し、郷は次第にその地方の呼び名となっていき、江戸時代の文化文政(1820年)の頃の武蔵風土記稿は「麻生」の項で「此郡名ヲツカウルモノ 王禅寺、万福寺村ノ2村ニ限レリ・・・」と記し、麻生郷は上下麻生村だけとなりその郷名を消していきます。
昭和57年麻生の名が区名となって思わぬ波紋が起きました。それは全国多くの麻生の呼び名が「あそう」なのに何故「あさお」なのかの疑問でした。古来この地は「麻生(あさお)のお不動様」と呼ばれる如く「あさお」でそのルーツは前述した万葉集東歌「麻苧(あさお)らを麻笥(おけ)に・・・」にあると思われ、そのところが区名に選定した歴史的価値なのでしょう。
参考文献:「川崎市史」「横浜市史」「ふるさと三輪」「杉山神社考」文:小島一也(遺稿)
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