神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS
麻生区版 公開:2016年4月8日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第77回 小沢城(2) 前編文:小島一也(遺稿)

公開:2016年4月8日

  • LINE
  • hatena

 関東動乱の遠因は応永二十三年、関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏を襲ったことにありますが、今度は享徳三年、公方成氏が管領憲忠を御所に招いて殺害。公方と管領の争いは深刻化、室町幕府は上杉方の願いを入れ、長禄元年、伊豆に堀越公方を創立、一方、鎌倉公方は鎌倉を出て下総の古川を根拠地に古川公方と名乗り、鎌倉が関東を支配した時代は終わりました。上杉方にも文明八年、管領職を求めて長尾景治の反乱があり、以降約150年、関東一帯が三つ巴から四つ巴の戦になります。その時期、この地方で最も戦いの憂き目にあったのが小沢城でした。この鎌倉公方、上杉管領、そして長尾景春の抗争に最も活躍したのが有名な太田道灌でした。道灌は埼玉岩槻の地侍で時世の中で扇谷上杉家の執事(家老)となり、江戸城を築いたと言われ、長禄元年、丸子で多摩川を渡り、川崎の幸、中原を扇谷上杉の勢力下にしており、丸子の農家を訪れた道灌が「七重八重 花は咲けども山吹の 実の(蓑みの)一つだに 無きぞ悲しき」と詠んだ挿話や、加瀬山に城を築こうとしたところ、鷲に兜を持ち去られた夢で断念、夢見ヶ崎と名付けたとする故事はこの折の事とされ、現市内が争乱の中に巻き込まれていたことを物語っています。

 太田道灌は文明九年、小沢城に長尾景春を攻めています。景春は元は道灌と同じ扇谷上杉家の重臣でしたが関東管領職を狙って主家に謀反をしたもので、その本拠地は鉢形城だったといい、北関東の同僚を集め南関東に進出すべく、関戸、矢野口で多摩川を渡り、小沢城をその前線にしていました。道灌の上杉家は裏切り者を討つべく、丸子から井田、作延、枡形を押さえて兵を進め、2回にわたって激戦を繰り返したそうで、城に籠った長尾勢は石礫(いしつぶて)で応戦、破られて敗走しますが、その際の石礫が今も発見されることがあるそうです。このとき敗れた長尾勢は細山、高石、万福寺、麻生と鶴見川に沿って逃亡、現横浜市港北区の小机に籠っています。それは多摩川流域は上杉勢に押さえられていたことと、当時この小机城の主は長尾景春に与していた矢野兵庫助と呼ぶ武将だったからでした。それにしても、他国の軍勢に蹂躙された小沢城は勿論のこと、この地方こそ迷惑で被害は麻生一帯に及んだのではないでしょうか。【次回へ続く】参考文献:「川崎市史」「横浜市史」「稲城市史」「読める年表 日本史」
 

麻生区版のコラム最新6

あっとほーむデスク

  • 3月29日0:00更新

  • 3月1日0:00更新

  • 1月19日0:00更新

麻生区版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2024年3月29日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook