柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第80回 秀吉の天下統一間近 その時麻生で起きた事は(1) NHK大河ドラマ「真田丸をより深く知る」後編
【前回から続く】これに対して、北条の軍勢は、各地から集めた精鋭部隊5万人が小田原城に集まり、態勢を整えていました。北条氏はこの事件が発生する以前から秀吉との交戦があることを予測し、着々と準備をしていたようです。麻生にも関係する事柄がありました。例えば1584年(天正12年)北条氏直から王禅寺に対し寺領の木や竹を勝手に伐採する事を禁止した書状が送られています。また、北条氏照の守る三輪の沢山城からは多量の焼き米が発見されています。これは沢山城が年貢米の貯蔵施設であったことから、秀吉との籠城決戦のために多くの米が小田原城に輸送される基地であったのではないかと考えられます。
それにしても北条氏や真田氏はこの名胡桃城の領有に、なぜここまで執着したのでしょうか。それは、城の持つ位置が重要なポイントになります。北は上杉の「越後」、南は嘗ての武田・織田の支配した「信濃と甲斐」、東は北条の関東支配の念願の地「上野」でした。現在の群馬県沼田や利根川を挟んだ対岸の名胡桃城は、周辺各勢力の接点となる重要な場所でありました。真田氏は名胡桃が祖先の墳墓のある地であると主張していますが、この主張は真田氏の戦略の一つであったのではないでしょうか。真田氏の出自は信濃国小県(ちいさがた)郡を本拠にした国衆(くにしゅう=各地域に根を下ろした土着性の強い在地領主)として実在した滋野一族であると考えられています。したがって「祖先との縁」というよりは、この地域の「地の利」を利用した領土への野心と考えた方が妥当ではないかと思われます。
参考資料:「川崎市史」「ふるさとは語る」 文:板倉敏郎
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