柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第119回 シリーズ「麻生の歴史を探る」民間信仰(5)石造物〜子育て地蔵 前編
麻生区古沢の九郎明神社の北面に、「古沢の子育て観音」と呼ぶ小祠があります。そこには、「帰命頂礼その昔、廃寺となるは数あれど、此処に一つは古沢に、山号申せば古沢山、寺号申せば福正寺、安置まします御本殿、今の世までも変わりなく、御堂はなくもいといなく、何時か世に出る時も来る、長き年月絶え間なく、故郷護りたまいけん、利益新たな御仏は、千手観音菩薩にて、子育て守る地蔵尊、釈迦牟尼如来ましまする、南無阿弥陀仏阿弥陀仏、六字の名号書き残す、身はたとひ廃寺となりて朽つるとも、心残れる古沢の里、南無阿弥陀仏南無阿弥陀、南無阿弥陀仏阿弥陀仏」の詠歌が今も残されています。
帰命頂礼とは仏に帰依することを言うそうですが、この和讃は古沢のお地蔵様の由来を語ったもので、古くから古沢にあった福正寺(真言宗坂浜高勝寺末)が、明治初年の廃仏令で廃寺となり、残された観音様と地蔵様は愛する古沢の里を去るに忍びず、風雪に晒され、いつか世に出る時節が来る、現在、地元の方によって堂宇が建てられ、地主の古沢サダ子さんによって大切に管理されています。
堂内には右に子育て観音(福正寺本尊でなく近年の作)、左に赤子を抱いた子育て地蔵像(天保の頃か?年代不詳)が安置され、祈願成就の奉納幕や絵馬で飾られ、鄙びた荘厳さを呈しています。
この子育て地蔵由来の和讃が、いつ頃、誰によって作られたのか、地元の古老古沢荘一さんの話では、「福正寺が廃寺になったのは明治五年、その頃古沢の在家は片平修廣寺の檀家になっており、福正寺の本尊聖観音像は高勝寺に戻り、残されたお地蔵様が古沢山(こたくさん)として、布教のため修廣寺の僧によって詠まれた」とされており、今でも在家農家の間では「頼まれ念仏」と呼ばれ、唱えられているそうです。【後編へ続く】
文:小島 一也(遺稿)
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