柿生文化を読む 第141回 シリーズ「麻生の歴史を探る」露天商揚屋一家 前編参考資料:「ふるさとは語る(柿生郷土史刊行会)」「稲毛郷土史(伊藤葦天)」「川崎市史」
毎年1月28日は麻生不動だるま市で、露天商が軒を連ねますが、だるまが商われたのは明治・大正の頃からで、本当の名は火伏信仰の木賊不動といい、露天の店は江戸時代からお不動様の沿道を賑わしていました。これを差配していたのが、王禅寺の縁日商揚屋一家です。その帳元の尾作秀吉(初代清吉)氏の家は今は商人ではありませんが、今でも屋号を「揚屋」と呼ばれ、この家には享保の時代(1716〜36)江戸町奉行大岡越前守に差し出した“御公儀の掟は固く守る“の商人掟書が残されているそうです。
享保年間というと8代将軍吉宗の時代、享保の改革などで幕府財政は安定しましたが、年貢率の引き上げなどで村々にはいくつかの問題が起きていました。その一つは百姓が持つ農地面積の変化で、右下表は寛永年間から天保年間(1624〜1844)に至る王禅寺村の農民階層の構成表ですが、自己の耕地だけでは生計が立たない層が時代を追って増えていくのが判ります。加えて農地の分割相続はさらに小農層を造り出し、農家の跡目相続制度(百姓株)は、二・三男を農外産業に追いやっていきます。そこで村内にあって生じたのが、農間渡世と呼ぶ生業で、縁日商を含め、それは王禅寺村に限られるものではありません。尾作家に残された文書には享保の頃のこの地方の露天商仲間は、13名と記されているそうです。
【後編に続く】
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