麻生区版 掲載号:2019年3月8日号
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柿生文化を読む 第145回 シリーズ「麻生の歴史を探る」名家志村家 前編

志村家奥津城
志村家奥津城

 昭和7年発行された「柿生・岡上村郷土史」は、当時の柿生小学校の先生が広く村内を回り取材したもので、その中には「名家」の欄が設けられ、そこには、王禅寺志村家(現琴平神社宮司家)の項があり、「東は上目黒・下目黒、南は都筑郡荏田村・佐江戸村に至る、芝増上寺領26ヶ村の総名主、総取締役同家に蔵される諸事御法度記録、検地水帳など、貴重な冊書数百冊」とその家柄と業績を紹介しています。

 この志村家の始祖はわかりません。現存する志村家奥津城(墓地)の墓誌によると、初代は志村善右衛門正信と記され、天正15年(1587)没しています。その子正之が善右衛門を世襲し、寛永9年(1632)王禅寺村検地の農民田畑持高表(川崎市史)を見ると、善右衛門家の持高は村内5番目の1兆9反歩余の田畑を有する上農(筆頭は3町歩余の三十郎)。それが3・4代は善右衛門を世襲、5代が文右衛門、6代が伝左衛門を名乗り、7代目が初代弥五右衛門となっており、正徳5年(1715)、前回より83年後の検地では、弥五右衛門の田畑持高は村内筆頭の3町7反余、山林14ヶ所となっています(川崎市史)。

 王禅寺村が寛永9年以来の増上寺領であることは前にも述べましたが、寺領が増えるに従って年貢を巡り寺と村との関係は複雑で、増上寺はこの正徳検地以前の元禄7年(1694)増上寺領検地を行っており、その際、この弥五右衛門は増上寺から王禅寺の名主役の任命を受けています(川崎市史)。これは増上寺支配を高め、村内問題を解決するためと思われます。当時王禅寺村では、表郷(現王禅寺東)と裏郷(現王禅寺西)の間に、裏郷が眞福寺村として独立する動きがあり、加えて表郷には、古刹王禅寺との間に山年貢高、お伊勢山寺領境界で争いがあり、眞福寺(裏郷)側は、王禅寺のお寺に加担、論争となりますが、市資料によると、増上寺は正徳2年(1712)「百姓、新村と申す、種々我儘相構えて申す…」として、裏郷の申し出は取り下げられ、お伊勢山の境界は後に神明社の再建で解決され、弥五右衛門は名主の役目を果たし、裏郷の名主年寄は一時廃されています。

      【後編に続く】

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