柿生文化を読む 第167回 シリーズ「麻生の歴史を探る」天明の大飢饉〜みさきの土塁〜後編 文:小島一也(遺稿)
現麻生区細山に「みさきの土塁」と呼ぶ所があります。これは天明の大飢饉にこの地の大地主白井治良右衛門が、村人の困窮を救ったことから、後に村人が治良右衛門の恩に報いるため屋敷に土塁を築いたもので(細山郷土史料館)、現在その土塁は昔のまま残されています。場所は香林寺の裏の谷戸の小字坂東(観世音菩薩霊場の別名)の旧家、白井家の屋敷内にあります。この白井家は通称屋号を「みさき」と言われ(現当主は17代白井光一氏、治良右衛門の孫)、東南向き、舌状に張り出た約3〜400坪の白井家の屋敷の三方は、底辺4〜5m、高さ約3mの梯形の土塁で囲まれ、土塁の1辺の長さは三方に分かれ、長い所で約40m。特に風当たりが強い辰己(東南)の方角は角に曲げられ補強され造られています。
細山村は新編武蔵風土記稿に「村の地形細長くして、その地はすべて山上なるをもって起こりし名なり」とあるように、東西25・6町(約2、8Km)、南北18・9町(約2Km)、戸数59軒(天明年間)、石高200石、うち水田は僅か88石で、米で納入の年貢は厳しく、足りぬところは麦・粟・黒川炭で補ったとされ、ただでさえ厳しい村の生活の中で、飢饉ともなると、暮らしに苦しむ農民が出るのは当然のことでもありました。
飢饉が去っても、貧しい農民には治良右衛門の恩義に報いる「物」は何もありません。そこで考えられたことは、白井家の屋敷は東西の風当たりが強く悩んでいたことから、これを防ぐ土塁を築こうとしたもので、百姓が持つものは畑の土と、自分たちの労働力。限られた人数で、あの大きな築塁に要した歳月はわかりませんが、農民と地主の扶け合いの温情が、今に残るのは大変貴重なものではないでしょうか。
なお、この白井治良右衛門は、村内数か所の谷戸川に石橋をかけたと言われ、安永7(1778)年建立の、石橋供養塔が香林寺境内に残されています。
【参考文献】「細山郷土資料館発行文書」「読める日本史」「町田市史」「川崎市史」
※小島一也さんによるシリーズ「麻生の歴史を探る」は今回で最終回です。長い間、ご愛顧ありがとうございました。
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