柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」中世人の生活の舞台としての鶴見川【3】-3 文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
渋口郷で大きな田地を所有する在家「浄法」はどこに住んでいたのだろうか。川崎市発行の 5千分の1「久末」地図を見ると、久末と蟹ヶ谷の境に城法谷の地名が記されていることに目が留まった。『川崎地名辞典』で確認すると読みは「ジョウホウ」で、地名の由来は不明と記している。在家にある「浄法」も読みは「ジョウホウ」で共通である。現在は久末に属しているが、谷の入口から郷の中心である橘樹
神社までは 400mと極めて近い。城法谷は在家「浄法」の名残りではなかろうか。城法谷が矢上川に合流する辺りは谷幅が大きく広がり水田が造られている。谷の入口付近の緩斜面に屋敷を構えて、屋敷周辺に畠を造り谷戸田から安定した収穫を得る一方で、矢上川に沿った低地の耕作を行っていたと考えられる。「地検目録」には堰の維持管理に田地の 15%を免田に割いているので、堰や水路の維持管理に苦心していたことがうかがえる。
さらに「地検目録」には在家とは性格の異なる記事がある。「阿久津殿」と「横山殿」である。「殿」が付いている事から推測すると、百姓身分と領主の中間に位置する地侍層であろう。阿久津殿は子母口の隣に位置する明津に関わる人物と考えられる。明津の常専寺付近の畑からは、古瓶に入った約8貫の古銭が発見されていることから、明津には交通の分岐点に拠点を構え交易を生業としてする有徳人がいた可能性もある。
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