麻生区版 掲載号:2020年10月16日号 エリアトップへ

柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」中世人の生活の舞台としての鶴見川【4】―2 文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)

掲載号:2020年10月16日号

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小田原北条家所領役帳(国立国会図書館デジタルによる)中田藤次郎 渋江(口)三間在家が記されている
小田原北条家所領役帳(国立国会図書館デジタルによる)中田藤次郎 渋江(口)三間在家が記されている

 江戸氏と多摩川右岸との関わりは、南北朝期に入ると文献にあらわれる。文和4(1355)年、江戸彌七が太田渋子郷(多摩区長尾・宮前区神木本町・神木・平・土橋)への押領狼藉を働いている(「佐々木文書」)。さらに『太平記』33巻には延文3(1358)年に江戸高良・同冬長は稲毛庄十二郷を領していた事が書かれている。こうした江戸氏一族の多摩川右岸への進出に呼応して、蒲田氏は交通の分岐点である渋口郷に進出して権益を得たのであろう。

 渋口郷をめぐる新田岩松氏と蒲田氏の対立は、その後どうなったか史料がないので不明であるが、岩松氏も有力な武士であるだけに簡単に手放したとは思えない。

 一方の蒲田氏も渋口郷に居座ったとみられる。この事件から50年後のことであるが、渋口郷の西隣にある醍醐寺領高田郷が武士によって押領される事件がおきた。醍醐寺は室町幕府に働きかけて、永享四(1432)年に高田郷を取り戻している。この時、現地に赴き醍醐寺に引き渡しに立ち会った鎌田助次郎は、高田郷に隣接する渋口郷の蒲田氏と思われる。

 戦国時代に小田原北条氏が永禄2(1559)年に家臣の軍役を確定するために作った『小田原衆所領役帳』には、蒲田氏と渋口郷について大変に興味深い記事が載っている。江戸衆(江戸城に配置された軍団)の蒲田助五郎は六郷堤方で27貫文、稲毛庄木月郷今井屋けへ方で3貫文が所領として記されている。今井屋けへ方については井上弘明氏の研究によれば新城2丁目付近に比定される。それに従えば蒲田助五郎は渋口郷に近接して所領を持っていたことになる。さらに、太田康資(太田道灌の曾孫)は多くの所領を持ち北条氏から配属された寄子の外に、自分の私領の一部を寄子衆に配当している。この寄子として蒲田分の10貫文稲毛渋口分があるが、康資から蒲田氏の所領を安堵されたのであろう。これとは別に江戸衆の中田藤次郎には15貫180文 稲毛渋口三間在家の記事があり、渋口郷は二分割されて記されている。蒲田分は蒲田氏の所領が半ば地名化したもので、この蒲田氏は至徳元年に抵抗した蒲田道儀の子孫であろう。一方、岩松氏も渋口郷を支配し続けたと思われる。「中田藤次郎稲毛渋口三間在家」はその後身にあたると考えられる。永徳4年の「地検目録」にある「領家方」と「二木方・立河方」等と下地中分された渋口郷を引き継いで、岩松氏と蒲田氏はそれぞれ支配したのであろう。

 この他に蒲田氏のなかには世田谷吉良氏の家臣となった支族がいる。また、幸区円真寺には寛永17(1640)年銘の蒲田一族を供養した宝篋印塔がある。
 

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