柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」謎の深い前滝口榎下重兼たち【1】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
10年ほど前に京都在住の中世史研究者N氏から手紙をいただいた事があった。N氏は中世武士団研究に貴族の日記を活用する手法で目覚ましい業績をあげていた。手紙には「『吾妻鏡』建久5年(1194)8月20日条にある前滝口榎下重兼は鶴見川流域の武士の可能性を考えてみたが、それを直接証拠だてる史料に欠ける。傍証として重兼の「重」は武蔵国の武士団である秩父平氏の通字であること。榎下という地名を武蔵国内で探すと都筑郡に榎下郷であることがあげられる。付近には麻生郷があるので、地元にいる私に意見を求めたい」という内容であった。その時は芳しい返事を出さなかったように記憶しているが、頭の片隅にこの問いかけが残っているので、この機会にもう一度考えてみたい。
では『吾妻鏡』を見よう。建久5年(1194)8月20日、甲斐源氏の遠江守安田義定の伴類(一味)の武士達が名越辺において処刑された。武士の名前は前滝口榎下重兼、前右馬允宮道遠式、麻生平太胤国、柴藤三郎、武藤五郎であった。この事件の前日に反逆の咎で安田義定は梟首されている(『吾妻鏡』)。(つづく)
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