柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」謎の深い前滝口榎下重兼たち【2】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
榎下重兼らが一味同心した甲斐源氏の安田義定とは、いかなる人物なのか見ることにしよう。義定ら甲斐源氏は源頼朝の挙兵と前後して挙兵して、富士川の戦いでは甲斐源氏の軍勢は4万余の大軍勢で平維盛軍を圧倒し敗走させて、駿河・遠江を支配下におさめている。挙兵の段階では甲斐源氏の軍事力は頼朝のそれを凌いでいた。義定は遠江守護と遠江守を兼帯して、頼朝から半ば独立した存在であった。
平家を壇之浦で滅ぼし、奥州藤原氏を倒して鎌倉幕府の基礎が固まると、いささかでも頼朝に対抗できそうな人物は粛清されていった。建久4年8月17日には平家追討に大功のあった弟の範頼が謀反の疑いで伊豆に配流されている。同年11月28日に義定の子息越後守義資が頼朝の御側に仕える女性に艶書を出した罪に問われて梟首されている(『吾妻鏡』)。さらに、義定が子息義資の死を嘆き悲しむと、その言葉尻を捕らえて梟首して、その一味である榎下重兼らも処刑している。
(つづく)
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