柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」 源頼朝の嫡男誕生に鳴弦の役を果たした師岡重経【3】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
鳴弦の役とは弓に張った弦を手や矢で弾いて鳴らし、発した音で悪霊・邪気を払う祈祷法で、平安時代、皇子誕生の湯浴の際に、前途の安寧を祝して漢書を読み鳴弦をした(『日本史広辞典』)。重経にとっては頼朝政権の晴れがましい舞台で大庭景義や上総介広常という実力者と並び大役を果たしたのである。頼朝政権内での重経の地位の高さをうかがい知ることが出来る。しかし、重経の栄光はここまでだった。『吾妻鏡』文治元年(1185)四月十五日条では、頼朝の推挙を得ずに勝手に朝廷から官位を得た20数人の御家人と共に、兵衛尉に任官した重経は頼朝に厳しく叱責されている。これは頼朝が武家の棟梁として御家人を統括するためには朝廷の関東御家人に対する直接支配を排除する事が不可欠であったからである。さらに、一族の惣領である河越重頼が、義経の謀反に連座して処刑されて本領を没収されるという事件が起きる。こうしたな事が影響したのであろう重経の地位も低下したようだ。文治五年(1189)鎌倉を出発する藤原泰衡討伐軍の隊列の後ろに重経の名前が見える。また、建久六年(1195)頼朝が上洛して東大寺再建供養に臨む随兵の隊列の末尾に師岡次郎が記されているが、この記事を最後に『吾妻鏡』から師岡氏の名前は出てこなくなる。それから百年後の徳治二年(1307)円覚寺で毎月四日に行われる北条時宗忌日の大齋結番衆に諸岡民部五郎の名前が見える(「円覚寺文書」)。師岡氏は北条氏の被官(家臣)として命脈を保っていた。
(つづく)
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