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麻生区版 公開:2021年11月19日 エリアトップへ

柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」賀勢庄の故地「加瀬」と鎌倉御家人加世氏について【3】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)

公開:2021年11月19日

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図版 大正6年測量5万分の1『東京西南部』秋草紋壺出土地 越路遺跡
図版 大正6年測量5万分の1『東京西南部』秋草紋壺出土地 越路遺跡

 『吾妻鏡』仁治二年(1241)二月二十五日条に上野国菅野庄の境相論があり、長秀連と高田盛員が執権北条泰時の御前で対決し、盛員が敗訴し所領一円を没収されるが、藤内能兼と加世五郎季村が上野国への使者になっている。先に登場した次郎宗季と五郎季村とは「季」が共通であることから親族と考えられる。上野国は安達氏が守護であることから、被官の加世氏が使者に用いられたと思われる。

 2006年に有力御家人安達氏の武家地とされる鎌倉市今小路西遺跡から墨書木札が出土した。墨書木札には文永二年(1265)五月日の銘があり、1番から3番の番に編成された多数の武士の名前が記されている。その中に「三番 かせ□入□□」が見える。この墨書木札は安達氏の宿舎周辺を夜間に警備のため巡回するいわば当番表である。加世氏が安達氏の被官としての活動が具体的に分る貴重な資料である。この墨書木札が記された20年後の弘安八年(1285)に起きた霜月騒動によって安達泰盛一族は滅ぼされ、安達氏に与した多くの御家人達が討たれ、あるいは自害している(「安達泰盛乱聞書」)。被官の加世氏も安達氏と運命を共にしたのであろう。ところが、霜月騒動後も一部の加世氏は命脈を保っていたようで、正安三年(1301)の関東下知状には相模国長尾郷田屋村の田8段余の年貢を数年間滞納したことで鶴岡八幡宮供僧に訴えられて、田地を取りあげられた加世長親親子の事が記されている。これを最後に加世氏は歴史の表舞台から姿を消している。

(つづく)

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