柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」稲毛重成の人物像にせまる(その2)【3】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
先に秩父平氏が交通の要衝に一族を配置した事を見たが、吉富郷は鎌倉街道上道が多摩川を渡河して武蔵国府に至る交通の要衝である。この土地は平弘貞の所領であるが、稲毛重成が自分の所領として申告した背景には鎌倉街道上道の交通・流通に関わる何らかの権益を有していたとも考えられる。
さて鎌倉の主である源頼朝は稲毛重成・榛谷重朝兄弟をどの様に処遇したのであろうか。畠山重忠の処遇と対比しながら見る事にしよう。挙兵にあたり稲毛重成が平家方として頼朝に敵対した事は先に記した。治承四年(1180)八月二六日には従弟の畠山重忠は河越重頼や江戸重長等とともに頼朝に味方した三浦義明を衣笠城に攻めて討ち取っている。やがて頼朝は上総広常や千葉常胤の来援を得て勢力を盛り返し隅田川の長井渡まで進むと、同年十月四日には畠山重忠・河越重頼・江戸重長等は頼朝の元に参陣している。頼朝は「有勢の輩を抽賞せざれんばことなり難からんか」と秩父平氏の臣従を受け入れて、三浦一族に対しては畠山重忠等に憤りを残さぬように伝えている。同月六日、多くの軍勢を率いて頼朝は鎌倉に入っているが、この時の先陣は畠山重忠が勤めている。榛谷重朝は稲毛重成より早く『吾妻鏡』に登場する。
(つづく)
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