柿生文化を読む シリーズ「草創期の柿生中学校」柿生中学校の誕生まで【3】文:小林基男(柿生郷土資料館専門委員)
この改革で、最も大きな苦労を背負ったのは間違いなく新制中学校でした。小学校は高等科の2年を切り離すことになりましたが、元々義務教育部分は6年間でしたから、新制度にすんなり馴染んでいけました。新制高等学校は義務教育ではありませんから、突然生徒数が急増するようなこともなく、旧制中学校の校舎をそのまま利用し、中学校の教員の多くが、新制高校の教員に移行する形で、比較的スムーズに移行する事が出来たのです。
しかし、中学校はそうはいきません。義務教育ですから、小学校の卒業生が全員入学する事になります。旧制中学校は数も少ないうえに、その校舎は新制高校が使っています。ですから、先ず校舎がありません。先生もまた高等科を中心に教えていたごく僅かの先生しか確保できず、先生探しもまた大変だったのです。ですから文部省は、六・三制への移行は、時間をかけてゆっくり進めなければ無理だと考え、その旨をGHQに伝えたのですが、GHQはあくまでも新小・中学校のスタートは1947年春とすること、新制高校と新制大学のスタートは翌年の1948年とすることを譲らなかったのです。
こうした事情で、柿生中学校は1947年5月5日、様々な困難を抱えながら創立の日を迎えることになったのです。それは川崎市では16校の新制中学校の1校、川崎北部地区では3校しかなかった中学校の1校としての誕生でした。
(つづく)
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