柿生文化を読む シリーズ「草創期の柿生中学校」校舎は何処に?【2】文:小林基男(柿生郷土資料館専門委員)
校舎建設委員長の大役をお引き受けになられたのは、鈴木太郎氏でした。「当時の貧しい柿生周辺の村々には、自分たちで資金を工面して校舎を建てる財力などあろうはずもなかった。」「だから、何とか先送りできないものかと考えていたところへ、隣の稲田では校地が決まった。生田には校舎があるなんて話が伝わってきて、これは何とかしなければ... という空気になったのです。」『柿生中学校30周年記念誌』の座談会などで鈴木氏はこう語っています。
校地の候補として、片平の寺台や山口の日光台、竹の花などいくつもの候補地が挙げられたようです。しかし、当時並行して進められていた農地改革が問題となりました。柿生地区は耕作に適した農地の乏しい貧しい地域でした。それ故、小作農や自作規模に満たない耕地しか持たない貧農に、分配できる耕地をこれ以上減らすことは罷りならぬ。こうした判断で、農地を学校建築に転用することは、許可されない見通しとなってしまったのです。そこで初めて、柿生小学校の隣に、馬の背中のように連なっていた現在の校舎の位置(当時の柿生小学校の校舎は、現在のグランドの位置にありました)に決まったのです。
(つづく)
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