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麻生区版 公開:2023年12月1日 エリアトップへ

柿生文化を読む シリーズ「草創期の柿生中学校」そして「思い出の丘」(その2)【1】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

公開:2023年12月1日

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(右)白井錠次郎先生頌徳碑。「思い出の丘」の臼井義胤氏頌徳碑のすぐ脇に並ぶように建っています(左)白井錠次郎先生
(右)白井錠次郎先生頌徳碑。「思い出の丘」の臼井義胤氏頌徳碑のすぐ脇に並ぶように建っています(左)白井錠次郎先生

◆柿生の教育と臼井義胤、白井錠次郎、青戸四郎右衛門◆

 「思い出の丘」にはもう一つ白井錠次郎先生頌徳碑が、臼井義胤氏頌徳碑の脇に建てられています。錠次郎先生は明治15(1882)年に上麻生小学校に奉職し、大正11(1922)年12月に上麻生分教室の廃止に伴って退職されるまで、実に40年の長きに亘って上麻生小学校一筋に教鞭をとり続けられた方です。

 先生は真面目で勤勉な方だったそうで、当時の下等小学校(後の尋常小学校)と上等小学校(後の高等小学校)を卒業された後、独学で勉強を続けて18歳で「小学校授業生」の資格を取ることに成功、助教師として上麻生学校の補助教員になりました。当時の学校には、教員による宿直がありました。勤勉な若者には、誰にも邪魔されずに勉強のできる有難い時間でした。しかし、上麻生学校には教室と職員室兼村役場しかなく、宿直室などなかったのです。

(つづく)

青戸四郎右衛門先生
青戸四郎右衛門先生
(右)明治10(1877)年 完成した頃の下麻生学校(左)青戸先生報恩碑。後方校舎と体育館を結ぶ渡り廊下
(右)明治10(1877)年 完成した頃の下麻生学校(左)青戸先生報恩碑。後方校舎と体育館を結ぶ渡り廊下

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