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麻生区版 公開:2015年5月15日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第59回天保の飢饉王禅寺村はその時どうした(2)前編

公開:2015年5月15日

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幕末期の役人の様子(アンベール著「幕末日本図絵」より)
幕末期の役人の様子(アンベール著「幕末日本図絵」より)

 前回は天保の飢饉と王禅寺村の様子、そして、飢饉に際し発生した百姓一揆・打壊しが人災に近いものではないかという事や、役所が米の売り控え等に神経を尖らせている様子を書きました。

 今回は、江戸時代後期の幕府の仕組みからご説明しましょう。江戸時代のもう一つの大飢饉、天明の飢饉(1783〜88)の後、文化2年(1805)に関東地方の治安維持と強化のために「関東取締出役」、別名「八州廻り」という役所を設立しました。その権限は強力でした。水戸藩領以外、幕領・藩領・旗本領・寺社領の区別なく、いかなる領地でも警察権を行使でき、博徒(ばくと:博打打ち)の取り締まり、無宿者・犯罪人の捜査や逮捕、さらには農村における不穏な動きに目を光らせていました。やや秘密警察的な性格で、元犯罪者や博徒等を手先に使い、悪を持って悪を征するような性格を持っていました。無法者に近い者たちが多く加わっていたわけですから「泣く子もだまる八州廻り」という言葉も生まれ、大変怖がられていたわけです。 王禅寺村の志村家文書には、「八州廻」を指揮する「関東取締代官」山田茂左衛門や山本大膳、その配下の八州廻りの吉田左五郎・太田平助・小池三助の名前が出てきます。それ以前の、文政元年(1818)には、岡島善蔵が武蔵国橘樹郡に八州廻りとして配属され、村々の芝居・狂言・相撲をはじめ演芸などを禁止しました。これらの芸能は、当時の人々にとって滅多にない楽しみの一つであったと思われます。役人は人々が多数集まる事は暴動などにつながると考えたのでしょう。【次号後編へ続く】

 参考史料:志村家文書「差上申御請証文之事」天保7年(文:板倉)
 

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