柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第102回 シリーズ「麻生の歴史を探る」徳川入府(1)〜士農分離 後編
【前回から続く】このことは戦国以来、農地を耕しながら戦をしてきた土豪にとっては大変な改革で、その多くは田畑は捨てきれず、刀を捨てて村の庄屋、名主などになっていきますが、小田原北条が滅びて江戸幕府が誕生するこの間約10年余、この地の村々には村の基盤を揺るがす地殻変動が起きていました。
この時代、麻生周辺の土豪の去就を新編武蔵風土記稿で見ると、橘樹郡菅村の項に、百姓定右衛門・定四郎の欄があり、これは前項小沢城の城主佐保田山城守の子孫が農民となったもので、菅村では15家(15苗)の地侍が刀を捨て、農民となり、定右衛門が名主となったと記しています。高石村の欄には、名主兵右衛門の先祖は世々当所の郷士で吉沢民部と称し、その家伝には藤原姓とありますが、天正の頃に百姓となり名主を勤め、寛文年間(1661〜72)には地頭となったとしています。また百姓孫右衛門の祖は小机城の家老笠原氏の庶流でこの地に土着、刀を捨てたとあります。百姓長兵衛の祖は石塚氏で、天正の頃の水帳には右近とあり、佐竹氏の末流とされ、さらに百姓甚蔵の祖も佐竹氏末流の木下四郎左衛門と称する地侍で、ともに徳川入府の頃に農民になったと述べられています。細山村の欄には、「御打入(徳川入府)後、土方・白井・三輪・宮田と云える者ども荒野を開墾し・・・・」とあって、「百姓佐兵衛、土方を氏とす、先祖を蔵人という文禄(1592〜5)の頃の人」と紹介されていますので、この地では土方蔵人を筆頭とする郷士4苗が文禄の頃に百姓となったことがわかります。
新編武蔵風土記稿には旧柿生村の旧家について記載がありません。これはこれからの私どもの課題としておきます。鎌倉時代からの御家人大曾根氏(寺家町)について新編武蔵風土記稿は、旧家百姓源右衛門の欄に「祖を大曾根と云う・・・・、中頃没落し金子と改む、今元に復して大曾根と云う・・・・」とあり、寺家・鴨志田村の名主を勤めています(現寺家ふるさと村四季の里にミニ資料館あり)。また、沢山城の三輪・大蔵村の領主市川加賀守定友は北条氏滅亡後の天正十九年、武士を捨て農民として生き延びることを選び、現町田市大倉町関山の円光院(廃寺)跡地に歴代子孫の墓、五輪塔を残しています。
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