柿生文化を読む 第140回 シリーズ「麻生の歴史を探る」水争い 後編参考資料:「横浜青葉区史」「ふるさとは語る(柿生郷土史刊行会)」「歩け歩こう麻生の里」「川崎市史」「新編武蔵風土記稿」
【前編から続く】
「水は天からのもらい物」「降れば洪水、晴れれば渇水」。溜池でも取水堰でも自然相手の水の取得は「我田引水」とあるように、いつの時代、どの地域でも水争いがあったようです。それを規制したのが村(組合)の取り決めでした。自分の田に水を引くには番水制と分水制があり、番水制とは一定の時間を設けての取水で、分水制とは取得する水の分量をまく種の播種量(1斗まきがほぼ1反歩相応)によって取り決めたと言われ、長い間に培われてきた地域連帯の農民生活が“恒例”という生活の知恵を生み、多少の不満はあっても、長年の伝来(しきたり)がこれを抑えていたようです。
元文三年(1738)上鉄村、中鉄村、下鉄村、大場村、市ヶ尾村(現青葉区)の5カ村が、下麻生村を相手取って幕府の奉行所に訴えを起こしています。鶴見川本流域は古代から豊穣の耕地で、時代ははっきりしませんが、上流の下麻生村に下麻生堰(現恩廻公園)が設けられていました。この堰から取水された用水路は早野村を経て5カ村を通り、川和村の境まで全長6Km余り、幅2mの水路で、50ヘクタールの水田を潅漑するものでした。事の起こりは元文三年その堰が流失。5カ村は早速その復元にかかりますが、下麻生村とその対岸の三輪村から異議が出て紛争となるわけですが、下麻生・三輪村の主張は「堰を作るなら今まで通りの蛇籠(蛇の胴のような竹籠に石を詰めたもの)を川底に埋めるものにしてほしい」。5カ村側は「杭を打って安定させたい」の主張で、結局は5カ村側の「農民の死活の問題」としての訴えに、奉行所は杭打ちを認めての落着となります。下麻生村としては、堰の存在は洪水などを起こし、迷惑で堀敷料もあり、村と村との駆け引きであったかもしれません。
文化五年(1808)この堀敷料(水路料)を巡って下鉄村と早野村の間に争いが起きています。毎年下鉄村は、早野村を通る用水の費用(堀敷料)として一石八斗八升四合を支払っていましたが、この年は凶作で免除してくれ、の要望に早野村が拒否した紛争で、他の4カ村は明らかではなく、これも村と村との関係で、結局は早野村の領守富永氏に一任したとされています。その後この下麻生堰は、文政七年(1824)取水口が崩壊、5カ村と下麻生村は協議書を取り交わし、昭和32年(1957)旧5カ村と神奈川県が鉄筋コンクリート堰とし、昭和48年(1973)鶴見川改修によって今は全く姿を消しています。
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