柿生文化を読む
早野の小字名に「富士山下」と呼ぶところがあります。これはこの地の上に「富士浅間神社」があったからで、その頂上は「仙元山」とも称する富士塚で、今は雑木に覆われ全く昔の面影はありませんが、標高僅か60m余ながら、大山丹沢連峰・富士山を望む眺望の地で、新編武蔵風土記稿早野村の項には「浅間社、除地一段一畝、村の北にあり」と記され、元禄15年(1702)早野村検地水帳にも「山壱反六畝二歩」とこの富士塚の存在が示されており、当時この地に富士信仰があったことを物語っています。この富士浅間社は、明治の合社令で「子ノ神社」に合祀されますが、現在、富士塚の下に稲荷社があり、その堂内に「富士山」と刻まれた鳥居の額石(年代不明)が納められています。
霊峰富士山を崇拝する富士信仰は古くは室町時代にあったと言われますが、最も盛んになるのは江戸中期、享保年間(1716〜35)8代将軍吉宗の頃からでした。特に享保の改革や大飢饉は、江戸庶民や農民に社会不安を与えて修験道者を生み、修験者の布教は「六根清浄、六根清浄」と富士浅間社詣での「富士講」となり、これは江戸中心に808講、講中8万人と言われ、降って、天明年間(1781〜88)天保年間(1830〜43)に起こる江戸町民の窮乏や農民不況には世直し的信仰となり、各地に登山成就碑や、富士礼拝の富士塚が築造されていきます。
従って麻生周辺にも富士塚(浅間社)は多くあり、今でもその眺望が楽しめるのが高石・上麻生境の弘法の松公園の「富士浅間」で、ここからは、富士・丹沢から秩父連峰まで望見でき、頂上には「富士塚」の石祠があり、金程一丁目の通称地名「浅間山」には浅間神社が祀られており、黒川汁森神社裏にも、墳径6m程の塚に浅間社の小祠があります。梅澤静作家の屋敷には「登山三七度大願成就」の記念碑があります。これは黒川周辺の富士講中が、明治35年に建てたもので、碑面には先達、世話人の名、そして黒川・平尾・細山・金程。矢野口小沢城跡の浅間山には三三度大願成就碑が3基ありいずれも生田、矢野口、坂浜の村名が記されています。栗木にも地名辞典に通称「浅間谷戸」の名が残されており、谷戸の北端である平尾境に「富士塚」があったのではと思われます。
【後編に続く】
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