柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」中世史料・資料の隠れた宝庫 恩田郷(その2)【3】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
東側の大きな谷戸(しらとり川・現在の環状4号線)には南から順番に「かるい沢田・地獄田・仏山田・そり町田」と田圃の地名が記されているが人家は描かれてない。ところが『新編武蔵風土記稿』恩田村仏山の項には「村の中央をいう、小高の所にして古碑あり、文字は漫滅して読むべからず」とあり、仏山には古碑が建てられていた様子が記されている。『新編武蔵風土記稿』における古碑は板碑を表しているので、中世には仏山付近に人が住んでいた可能性も捨てきれない。一方の絵図西側は東側の谷戸とは違った景観である。絵図西端には支流の奈良川が造る大きな谷戸の左岸が描かれている。ここには薬師堂(本尊薬師如来像は平安後期の作)や人家が描かれている。薬師堂付近の通称「源氏山」家墓にはかつて慶長五年銘(1600)圭頭型墓碑と呼ばれる古い形態の墓塔があった(他所へ移動)。この享保絵図には描かれてないが谷戸の対岸には真言宗の古刹徳恩寺が所在する。また、白山谷戸奥の万年寺谷戸にあった万年寺(廃寺)には正中二年(1325)銘の梵鐘が所在(他所へ移動)し、付近の苗万坂からは14世紀末から15世紀制作の蔵骨器が出土している。西側は鎌倉時代から人が住み続けてきた事がわかる。以上見てきたように江戸時代の村絵図に文献史料・金石文資料・考古学資料・現地調査の情報などを加えて中世の景観復元を試みた。復元した景観を念頭に置いて中世恩田郷の史料を読み進めたい。 (つづく)
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