12日に海開きを迎える湯河原海水浴場協同組合の代表理事を務める 石澤 潤一さん 湯河原町吉浜在住 75歳
海の家 縁の下の38年
〇…今では想像するのも難しい、埋め立て前の海岸を知る人。「今の湯河原中のあたりも玉砂利が広がって、地引網に飛び入りした。海水浴客を乗せたバスが何台も連なってね」。以前の経営者を引き継いで組合に入り38年になる。建物の組み立て方も分からず見よう見まねで金槌を振るい、開店。それからは一途に接客を磨いた。「8ミリフイルムが欲しい、麻雀の卓が欲しいと言われれば、街中走って調達しましたね」。どんな苦労も朗らかに受け入れる店の雰囲気に、リピーターもつくようになった。
〇…水びだしの防空壕や空襲に青ざめた大人たち、小型米軍機の影―5歳の時まで体験した戦時の風景は今もくっきり覚えている。湯河原中学校を経て小田原の城東高に進学。家業のミカン卸売を手伝い、父・源助さんのリヤカーを押したり、山を歩いては仕入れるミカンを見定めた。当時は1本の木を見て瞬時に一帯の収穫高を計算する。父からは「余分に見すぎるなよ」という言葉を聞かされた。「父は手が違ってた。毛が生えてゴツゴツして、毛ガニでしたね」。以前に比べミカンは品種改良が進み、扱う品種は100程度に増えている。「これは突然変異で誕生したもので、味わいは…」と果実博士のよう。ミカン卸売と海の家という多忙の中で「詩吟」をたしなむ。昔は工場を間借りして練習を重ね、各地の発表会をまわった。王貞治似の横顔で舞台に立ち、朗々と美声…目立った事だろう。
〇…海開きに向けて準備が進む海の家は、16軒。この風景もこの40年で随分変わり、数は4分の1になった。時には台風に見舞われる事もあったが、今立ち向かっているのが高齢化だ。親を介護しながら切り盛りする人もいる。「皆で長く続けるためにどうしたらいいのか。ツアーなどを呼び込むためには統合して規模を拡大してもいいのでは」。梅雨明けのような笑顔のまま、眼差しは生き残りをかけて遠い波を見つめている。
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